ネットの洗脳
偶然か何か、こんなまとめを発見した。
http://urasoku.blog106.fc2.com/blog-entry-338.html
チベットのデモ・暴動に関しての2chスレまとめ。
内容はともかく、こういうネットだけに限らず2次的なネタ(=自分で現物を見たり聞いたりといった1次的な物に対しての表現)に対しての自分のスタンスを少し書いておく。
ネットに限らず、新聞やテレビといった2次的な情報に関して頭から信じ込んでしまうのは大変危険だ。
このまとめを見ていただければ解ると思うが、>>1はチベット擁護派、さらに言えば中国嫌悪派だろう。
仮に本人がそうでなかったとしても、多くの人がそういう風に取れる文章の書き方をしている。
そして、その書き込みに対するレスの大半が、
「中国酷い」
だとか、
「人とは思えない」
だとかのネガティブ意見だ。
彼ら個人が持っていた元々の考えを助長した可能性も十分にあるものの、
「何も知らなかった」
と言っている人までが中国に対して同様のネガティブイメージを持ってしまうのは、恐ろしい。
内容に関しては冒頭でも述べた通り、今回の件について俺は不勉強なのでその是非を論じることは出来ない。
ただ、情報についての審議というものは多少なりとも意識しているつもりだ。
二次的な情報を鵜呑みにしてはいけない。
そこには、情報発信者による一次情報改変が少なからず行われているからだ。
情報というものは概念的なもので、一目見ただけではそれが自分に適しているかどうかを見極めるのは大変難しい。
そして情報というのは開示しないことで、その存在を隠匿出来る確率が非常に高い。
上記で示した一次情報改変というのは、何も情報の内容そのものを完全に嘘デタラメにまみれさせる必要はない。
全体の情報のうちの一部を取捨選択して、次の情報取得者に渡すだけで良い。
足りない情報は、情報取得者が他の情報源から補完するか、想像で補完することになる。
取捨選択のやりようによれば、この足りない情報の部分を容易に違う方向へ向けることが出来る。
嘘を本当に混ぜてしまうと何処かで綻びが出てしまうが、本当のことを一部隠すだけなら論理に破綻を来すことはないし、最悪突っ込まれた時は「知らない」で押し通せる。
これが単なる個人の怨恨等ならば良いものの、組織単位で計画的にやられると、思想の洗脳に繋がる訳だ。
少し話は逸れるが、今日とあるBlogを見ていた。
そのBlogの執筆者さんは、
「テレビなんて情報が操作されてるから見ないし、ネットがあればいい」
と書いていた。同時に、
「子供にテレビなんて見せていてはロクな人間にならない」
等とも書いていた。
マスメディアの情報に対する意識レベルはそれなりにあるとはいえ、ネットに対してどうして同じ事がないと言えるのか。
子供にテレビを見せないとすれば、子供にも同様にネットをさせるのか。
それとも硬い本でも読ませようとでも言うのだろうか。
何度も言うが、情報というのは容易に改変出来る。
意識していても、無意識でも出来てしまうほど容易な改変だ。
如何に中立な立場で物を書こうとしても、必ず文面には著者の内面が現れてしまう。
書籍というものは他者による介入の機会が極端に少ないため、情報改変に拍車がかかる。
というよりも、そういった改変を修正する機会がそもそもないのである。
同様の論理を雑誌や新聞にも適用すれば、紙面を媒体とするメディアの情報改変の度合いは極端に高いことが解る。
ではテレビやインターネットは?
テレビは製作に関わる人間が多いため、紙媒体よりかは若干の緩和があるかもしれないが、テレビ会社という大きな単位で動くため、差は微々たるものだろう。
寧ろスポンサーからの多額の資金が動くため、マイナスになっている可能性が高い(テレビ番組は、周知の事実以外スポンサーにとって不利な情報を流すことはまず出来ない)。
また視聴者はあくまで視聴する立場であって(地上デジタル放送の骨格でもある双方向通信が発展すれば変わるやもしれないが)、情報の精査・修正を行う立場にはない。
スポンサーによる介入の大きさを勘案すると、情報改変の度合いは高いと思われる。
インターネットに関しては、他のメディアよりかは個々人による修正の機会がかなり多く与えられる。
ネットに於いては、個人と企業の線引きが大変曖昧になるためだ。
同時に、無名の個人が言論という力を持つようになるため、情報の改変はその種類を増す。
無意識的に情報を改変する者、感情的に情報を改変してしまう者、計画的に情報を改変する者、国家やテロ組織などといった集団での改変など…。
他のメディアではある方向性に揃って改変されていた情報が、ネットにおいては無秩序に改変される。
程度は他の媒体に比べればマシだろうが、閲覧者にとっては更なる精査を求められることになる。
こうしてざっと並べてみても、二次的な情報を鵜呑みにすると危険であることはすぐに判る。
もっと言えば一次的な情報に関しても、個人の先入観や予備知識、その時の心情によって改変を受けるが、ここでは割愛する。
つまり、我々情報取得者が心掛けておくことは、「正確な情報源の確保」ではなく、「多数の情報から最も確からしい情報を論理的に導き出すこと」である。
如何なる情報源を用いても、そこに正確な情報などありはしない。
歴史というものがその最もたる例だろう。
アレは、その当時最も権力を握っていた者にとって都合が良いように書き換えられるものだ。
強者に淘汰されていった弱者の情報は大いに改変される。
だから歴史に関する情報の正誤等に意味はない。
アレを学ぶのは、残された情報から残されなかった情報を論理的に想像し、同じ轍を踏まぬようにするためだ。
…いや、これは言い方が悪い。
時と場合によっては、同じ轍を踏みたい・踏ませたいこともある。
現在の自分やその周りにとって都合が良いように情報を操作する方法を、歴史から学ぶというワケだ。
ここで歴史を学ぶことが有意義だとか娯楽だとかいう意見は一切関係ない。
それは議題と異なるなんて当然なのだから余計な注釈で話の腰を折るな、と憤りを感じられるくらいの思考力は持ち合わせていてほしい。
閑話休題。
多数の情報から最も確からしい情報を論理的に導き出すためには、結局は情報に慣れなければならない。
情報の真偽を問うても無駄な事はすでに解っているのだから、それら複数ある情報から如何にすれば矛盾の少ない簡潔な解が得られるのか、を念頭に置いて情報を俯瞰すべきだ。
そして前述の通り、歴史に学ぶ。
多数あったはずの情報の中から、何故その歴史だけが情報として残ったのか。
その情報が残ること・他の情報が残されないことによって、いつ・どこで・誰に・何を・どうして・どのようなメリット・デメリットが発生したのか。
こういった思考実験を繰り返していくほかに、情報の精査という技術は身につけられないだろう。
最近はテレビでよく、無駄に点数主義を煽ったクイズ番組が放送されているが、知識偏重の人間の行き着く先などタカが知れている。
知識の有無、その内容の真偽がどうかではなく、今手元にある情報を論理的に組み上げる頭がなければ知識の役立ちようもない(せいぜい人に自慢出来たりクイズ番組で勝てたりするだけだろう)。
知識の収集は必要条件であり、自身の論理的思考力が十分条件なのだ。
最初に紹介したまとめより、コメントの262番さんの言葉を引用させて頂きたい。
結局どんなに素晴らしく正しい情報を持ち合わせていたとしても、自分で考えられない頭ではマトモに扱えない。
それどころか、その貧相な考え方により自分が傍観者から加害者の立場へと変わることすら出来てしまう。
何故諸外国がデモの現状を知りつつも傍観していたのかを、論理的に考えなければならない。
感情的にものを考えて行動していけば、第3次世界大戦の勃発くらいノストラダムスでなくても予言出来る。
感情だけで国は維持できない。
ただし勘違いして貰っては困るが、国は民の感情の表現方法の1つでもある。
この辺りのギャップが、隔靴掻痒という奴だろうか。
以上に示した論理の演繹で、また俺自身が化学という分野を学びつつあること、そしてリンク先で取り上げられていたことも相俟って、環境問題等という得体の知れないものを扱ってみたいとも思う。
コレ以上書くと本当に書き終わらなくなりそうなので次に回すが、環境問題に関する情報も決して鵜呑みにしてはいけない。
多数ある情報をきちんと並べて、今自分がすべきことが何なのかを自分の頭で考えなければ、あらゆる問題解決はありえない。
情報に関しては、日本人お得意の「右に倣え!」では歯が立たないのだから。
http://urasoku.blog106.fc2.com/blog-entry-338.html
チベットのデモ・暴動に関しての2chスレまとめ。
内容はともかく、こういうネットだけに限らず2次的なネタ(=自分で現物を見たり聞いたりといった1次的な物に対しての表現)に対しての自分のスタンスを少し書いておく。
ネットに限らず、新聞やテレビといった2次的な情報に関して頭から信じ込んでしまうのは大変危険だ。
このまとめを見ていただければ解ると思うが、>>1はチベット擁護派、さらに言えば中国嫌悪派だろう。
仮に本人がそうでなかったとしても、多くの人がそういう風に取れる文章の書き方をしている。
そして、その書き込みに対するレスの大半が、
「中国酷い」
だとか、
「人とは思えない」
だとかのネガティブ意見だ。
彼ら個人が持っていた元々の考えを助長した可能性も十分にあるものの、
「何も知らなかった」
と言っている人までが中国に対して同様のネガティブイメージを持ってしまうのは、恐ろしい。
内容に関しては冒頭でも述べた通り、今回の件について俺は不勉強なのでその是非を論じることは出来ない。
ただ、情報についての審議というものは多少なりとも意識しているつもりだ。
二次的な情報を鵜呑みにしてはいけない。
そこには、情報発信者による一次情報改変が少なからず行われているからだ。
情報というものは概念的なもので、一目見ただけではそれが自分に適しているかどうかを見極めるのは大変難しい。
そして情報というのは開示しないことで、その存在を隠匿出来る確率が非常に高い。
上記で示した一次情報改変というのは、何も情報の内容そのものを完全に嘘デタラメにまみれさせる必要はない。
全体の情報のうちの一部を取捨選択して、次の情報取得者に渡すだけで良い。
足りない情報は、情報取得者が他の情報源から補完するか、想像で補完することになる。
取捨選択のやりようによれば、この足りない情報の部分を容易に違う方向へ向けることが出来る。
嘘を本当に混ぜてしまうと何処かで綻びが出てしまうが、本当のことを一部隠すだけなら論理に破綻を来すことはないし、最悪突っ込まれた時は「知らない」で押し通せる。
これが単なる個人の怨恨等ならば良いものの、組織単位で計画的にやられると、思想の洗脳に繋がる訳だ。
少し話は逸れるが、今日とあるBlogを見ていた。
そのBlogの執筆者さんは、
「テレビなんて情報が操作されてるから見ないし、ネットがあればいい」
と書いていた。同時に、
「子供にテレビなんて見せていてはロクな人間にならない」
等とも書いていた。
マスメディアの情報に対する意識レベルはそれなりにあるとはいえ、ネットに対してどうして同じ事がないと言えるのか。
子供にテレビを見せないとすれば、子供にも同様にネットをさせるのか。
それとも硬い本でも読ませようとでも言うのだろうか。
何度も言うが、情報というのは容易に改変出来る。
意識していても、無意識でも出来てしまうほど容易な改変だ。
如何に中立な立場で物を書こうとしても、必ず文面には著者の内面が現れてしまう。
書籍というものは他者による介入の機会が極端に少ないため、情報改変に拍車がかかる。
というよりも、そういった改変を修正する機会がそもそもないのである。
同様の論理を雑誌や新聞にも適用すれば、紙面を媒体とするメディアの情報改変の度合いは極端に高いことが解る。
ではテレビやインターネットは?
テレビは製作に関わる人間が多いため、紙媒体よりかは若干の緩和があるかもしれないが、テレビ会社という大きな単位で動くため、差は微々たるものだろう。
寧ろスポンサーからの多額の資金が動くため、マイナスになっている可能性が高い(テレビ番組は、周知の事実以外スポンサーにとって不利な情報を流すことはまず出来ない)。
また視聴者はあくまで視聴する立場であって(地上デジタル放送の骨格でもある双方向通信が発展すれば変わるやもしれないが)、情報の精査・修正を行う立場にはない。
スポンサーによる介入の大きさを勘案すると、情報改変の度合いは高いと思われる。
インターネットに関しては、他のメディアよりかは個々人による修正の機会がかなり多く与えられる。
ネットに於いては、個人と企業の線引きが大変曖昧になるためだ。
同時に、無名の個人が言論という力を持つようになるため、情報の改変はその種類を増す。
無意識的に情報を改変する者、感情的に情報を改変してしまう者、計画的に情報を改変する者、国家やテロ組織などといった集団での改変など…。
他のメディアではある方向性に揃って改変されていた情報が、ネットにおいては無秩序に改変される。
程度は他の媒体に比べればマシだろうが、閲覧者にとっては更なる精査を求められることになる。
こうしてざっと並べてみても、二次的な情報を鵜呑みにすると危険であることはすぐに判る。
もっと言えば一次的な情報に関しても、個人の先入観や予備知識、その時の心情によって改変を受けるが、ここでは割愛する。
つまり、我々情報取得者が心掛けておくことは、「正確な情報源の確保」ではなく、「多数の情報から最も確からしい情報を論理的に導き出すこと」である。
如何なる情報源を用いても、そこに正確な情報などありはしない。
歴史というものがその最もたる例だろう。
アレは、その当時最も権力を握っていた者にとって都合が良いように書き換えられるものだ。
強者に淘汰されていった弱者の情報は大いに改変される。
だから歴史に関する情報の正誤等に意味はない。
アレを学ぶのは、残された情報から残されなかった情報を論理的に想像し、同じ轍を踏まぬようにするためだ。
…いや、これは言い方が悪い。
時と場合によっては、同じ轍を踏みたい・踏ませたいこともある。
現在の自分やその周りにとって都合が良いように情報を操作する方法を、歴史から学ぶというワケだ。
ここで歴史を学ぶことが有意義だとか娯楽だとかいう意見は一切関係ない。
それは議題と異なるなんて当然なのだから余計な注釈で話の腰を折るな、と憤りを感じられるくらいの思考力は持ち合わせていてほしい。
閑話休題。
多数の情報から最も確からしい情報を論理的に導き出すためには、結局は情報に慣れなければならない。
情報の真偽を問うても無駄な事はすでに解っているのだから、それら複数ある情報から如何にすれば矛盾の少ない簡潔な解が得られるのか、を念頭に置いて情報を俯瞰すべきだ。
そして前述の通り、歴史に学ぶ。
多数あったはずの情報の中から、何故その歴史だけが情報として残ったのか。
その情報が残ること・他の情報が残されないことによって、いつ・どこで・誰に・何を・どうして・どのようなメリット・デメリットが発生したのか。
こういった思考実験を繰り返していくほかに、情報の精査という技術は身につけられないだろう。
最近はテレビでよく、無駄に点数主義を煽ったクイズ番組が放送されているが、知識偏重の人間の行き着く先などタカが知れている。
知識の有無、その内容の真偽がどうかではなく、今手元にある情報を論理的に組み上げる頭がなければ知識の役立ちようもない(せいぜい人に自慢出来たりクイズ番組で勝てたりするだけだろう)。
知識の収集は必要条件であり、自身の論理的思考力が十分条件なのだ。
最初に紹介したまとめより、コメントの262番さんの言葉を引用させて頂きたい。
一番怖いのはお前等だな
暴動はこうして起こるのだよ。
今回も暴動化せずただ抗議デモで終わってたら死なずに済んだ人間は沢山いるわ
暴動化した時点で中国政府に軍事を動かすキッカケを与えたにすぎない
そのため世界は強く介入出来ない。もしただの抗議デモの群衆に発砲したとかになれば世界は容易に介入出来た
冷静さを欠いたら無駄死に終わる
大事な事はキッカケを与えないこと
結局どんなに素晴らしく正しい情報を持ち合わせていたとしても、自分で考えられない頭ではマトモに扱えない。
それどころか、その貧相な考え方により自分が傍観者から加害者の立場へと変わることすら出来てしまう。
何故諸外国がデモの現状を知りつつも傍観していたのかを、論理的に考えなければならない。
感情的にものを考えて行動していけば、第3次世界大戦の勃発くらいノストラダムスでなくても予言出来る。
感情だけで国は維持できない。
ただし勘違いして貰っては困るが、国は民の感情の表現方法の1つでもある。
この辺りのギャップが、隔靴掻痒という奴だろうか。
以上に示した論理の演繹で、また俺自身が化学という分野を学びつつあること、そしてリンク先で取り上げられていたことも相俟って、環境問題等という得体の知れないものを扱ってみたいとも思う。
コレ以上書くと本当に書き終わらなくなりそうなので次に回すが、環境問題に関する情報も決して鵜呑みにしてはいけない。
多数ある情報をきちんと並べて、今自分がすべきことが何なのかを自分の頭で考えなければ、あらゆる問題解決はありえない。
情報に関しては、日本人お得意の「右に倣え!」では歯が立たないのだから。
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